これまでの活動経歴

昭和47年、Kプロデュースセンター・笑クリエイト社(社主、故 楠本喬章)が開席する神戸ミニ寄席「柳笑亭」に参画。
各イベントの企画、タレント派遣マネージメント、各地ホールでの落語会開催、神戸文化ホールの依頼により
「東西落語名人選」の企画制作。
昭和50年、笑クリエイト社主、療養不在の間、同社を一任され事務所を維持運営する。
「柳笑亭」閉鎖後、神戸元町凮月堂ホールにおいての「もとまち寄席、恋雅亭」は40年以上続いた。



昭和56年、故上田照也師当時、能楽センター理事長に師事、初舞台をきっかけに、能楽センターに引き抜かれる。神戸能楽センターで、毎月行っていた「謡曲ゼミナール」を「能楽ゼミナール」と改称し、手書きのコピーのチラシを広告をとり、アート紙で作成し、市内の各所に配布し開催。

講師依頼、招聘、受講者の動員を実施。長田神社、姫路城、福岡ユニセフ、大阪城などの、定期的な薪能、および福山城薪能、新春恒例、神戸文化ホール自主公演「神戸五流能」「神戸能」の企画制作に上田照也師のもと活動。

当時、能楽界で一番早かったと思うがパソコンを導入、事務処理をする。

兵庫県下における学生鑑賞能を、センターにて渉外、神戸市内及び三木市、加古川市にも出向き実施する。

全国で初めての能楽の授業を上田照也師の提唱で当時、西宮私立仁川学院にて行う計画を当時の院長、園田善昭氏とハード面から進める。

視聴覚教育の一環として謡曲と現在語訳のカセットテープ「謡曲ライブラリー」能楽振興事業団とネーミング企画し全国展開を計画立案するが、昭和59年、3月、上田照也理事長死去につき神戸能楽センター閉鎖。仁川学院の能楽授業と三田屋本店内の能楽堂建設および定期公演の実施などの計画を能楽センター閉鎖後、引き継ぐ。

大成功に終わった「福山城・薪能」
大成功に終わった「福山城・薪能」
仁川学院 コルベ講堂
仁川学院 コルベ講堂
謡曲ライブラリー 録音風景
謡曲ライブラリー 録音風景

大槻能楽堂での活動

昭和59年4月、改築して1年の財団法人大槻能楽堂に招聘され、11年間にわたり、外に開かれたユニークな能楽堂の活動を展開。新規観客の開拓と普及活動を実施する。

1.広報、宣伝活動と営業企画

  • 年間20から25回の自主公演を担当し、観客の動員を図るため、広報活動、 宣伝企画印刷物の作成。
  • 更に友の会を創設し友の会報の編集と団体鑑賞の交渉等を積極的に行い、 集客力のアップの定着化を図った。
  • 大丸友の会、阪急みどり会、阪神みどり会、日経レディースクラブ等の既存組織とのタイアップ。
  • テレビ、ラジオ、各種雑誌など既存メディアとの連携。
  • 朝日カルチャー能楽講座、「能楽鑑賞入門」大阪府教職員互助組合「謡曲教室」の開設。
  • 大阪府教職員互助組合の現職、退職者に入場料金の半額補助を得ての販売を交渉、実施。
  • 講演における講師への依頼、招聘を行う。
  • 国立文楽劇場、友の会報誌における自主公演の案内の掲載。
  • 唯一の有料広報としては、テレフォンサービスの制作、地下鉄の能楽堂案内掲示広告を導入した。
  • カード会社の冊子にて能公演として全国で初めて「自主公演能」のチケットの販売をする。

2.外部への開発と営業

  • 外部催し事業として意欲的に学生鑑賞能、また大阪周辺の新ホールでの杮落としの上演、岡山、シンフォニーホールにおけるノートルダム学院学生鑑賞能、後楽園能楽堂での能の上演の制作。
  • 大阪市水都首長会議、四天王寺1200年祭における能の渉外上演。
  • 大阪花の万博のユニオン・スクエアガーデンでの薪能では、質・内容共に最大規模の5日間の上演を渉外。
  • 羽曳野市主催による薪能の定例公演の実施。
  • 三田屋本店、有馬能楽堂の創設時からの監修と定期公演の実施。

3.能、狂言以外の催しについては舞台使用の稼働率を上げるため、積極的な貸館業務を行った。搬入、搬出などの長時間に亘る負担も多かったが舞台を理解していただき厳しい条件のなか、協力態勢のもと上演した。

  • 「文楽パフォーマンス」「若手素浄瑠璃の会」「アムジー室内楽」「韓国玄散調」「日舞の会」
    「大塚善章ジャズピアノソロ」「法喜モダンバレエ」「詩吟発表会」「長岡輝子朗読の会」
    「清水きよしパントマイム」「太田省吾の転形劇場」「エルポカ岡崎フラメンコ」
    「沖縄舞踊の会 」「大阪アジア文化フォーラム」「胡磨稔雄ファッションショウ」など。
  • 大阪シンフォニーホールにおける能「隅田川」と教会劇「カーリュー・リバー」の上演に際しての能楽サイドでの全面協力ほか。

4.助成金

  • 各種の助成金の申請を積極的に行い、芸術文化振興基金の助成金については第1回より助成金を申請、獲得をした。

5.学校教育における活動

  • 理事長・大槻文藏師をはじめ、一門で学生鑑賞能の説明会を開催し、大阪周辺の学校の学校長、担当の教師を招待し、能・狂言の鑑賞会を行った。
  • 各学校に定期的にダイレクトメールを発送し、能楽堂での開催、また遠隔地には出向いて渉外・開催を実施し、学生鑑賞能を拡張した。
  • 西宮市・仁川学院において、全国で初めての能楽授業を実施、新設なったコルベ講堂で、杮落としで能「翁」の上演。授業の講師派遣、授業日には学校に出向き担当者として業務を行う。
  • 全国初の東住吉高等学校においての芸術文化科創設にあたり、大阪芸能研究会委員として招聘され、ハード・ソフトに亘り参画。のちに大阪府府知事より感謝状を受ける。

6.各地での能楽堂および能舞台の鏡板の調査

  • 日本画家・故松野秀世氏、写真家・今駒清則氏、建築家・故澤良雄氏と共に、京都・西本願寺・国宝能舞台に申請願いを提出、調査に入る。
  • 主に近畿圏内、兵庫県、京都府の能舞台の情報、収集を実施。
  • 大阪、京都、神戸の一部は、編集していた大槻能楽堂友の会報に掲載。
  • ※ 以上、大槻能楽堂での活動は退職後、当時、能面研究家、中村保雄氏、元「観世」編集長、前西芳雄氏が主宰していた「仲間の輪」の能楽サミットのゲストに招かれた際の資料である。
  • ※ 平成2年、上田照也師7回忌の年に発行された-私本・上田照也の歳月「点を線にしたい」の著者、前半は元 神戸新聞学芸部長・黒柳盈雄氏。後半は元 読売新聞記事審査委員会の委員であった坂田昭二氏に依るが、照也師晩年の後半の文章は照也師夫人の依頼で、残していた写真、カセットテープ、スケジュール手帳、印刷物などの資料を持参し、坂田氏の自宅に千葉本人が通い口述したものである。
花博薪能「土蜘蛛」大槻文蔵  1990年8月4日 写真:ユニオン・スクエアガーデン
花博薪能「土蜘蛛」大槻文蔵  1990年8月4日
写真:ユニオン・スクエアガーデン
花博薪能「土蜘蛛」間狂言、ササガニ、茂山家  1990年8月4日 写真 :ユニオン・スクエアガーデン
花博薪能「土蜘蛛」間狂言、ササガニ、茂山家
1990年8月4日  写真 :ユニオン・スクエアガーデン
写真提供:三田屋本店・有馬能楽堂
写真提供:三田屋本店・有馬能楽堂
写真提供:三田屋本店・有馬能楽堂
写真提供:三田屋本店・有馬能楽堂

阪神・淡路大震災 そして 今

平成7年阪神・淡路大震災を機に大槻能楽堂を退職、神戸、社団法人観正会にて活動。当時能楽堂建設の計画があり準備事務所を開設して活動するかたわら、あさひホール能などを展開する。能楽堂建設は平成13年中止となる。

●主な活動

  • 三田屋本店、有馬能楽堂における定期能のコーディネーター
  • 東広島、賀茂川荘における薪能を起ちあげる。第6回まで参画。
  • 震災の年に朝日ホールで「あさひ能」を開催。第4回からは、湊川神社・神能殿にて上演。年2回の定期公演を実施。11回で終了。
  • 神戸学院大学ホール、グリーンフェスティバルでの能の上演。
  • 神戸五色塚古墳における薪能の上演。
  • 風月堂サロン講座、能面などを展示しての能楽講座の開催。
  • ギャラリー島田において、古典サロンシリーズの企画制作。
    小鼓と笛・小鼓とシャンソンなどのコラボ。落語・講談・尺八・女流義太夫などの上演。
  • 鼓楽の会、久田舜一郎、舞台生活五十周年記念、古稀記念能、上演に際し、後援会と共に参画。
  • 北野ガーデンにおける、年・2回の「芝能」上演の企画制作。
  • 横須賀基地、航空母艦[インデイペンデンス」における、能楽史上初の薪能の総合プロデュース。

西本願寺に再度、調査に入る。京都府綾部町の能舞台の調査、情報、収集を行う。平成14年、松野秀世氏が急逝され、その年に九州に行く予定であったので、年に一度開催される宇佐神宮の上演に合わせて、フェリーで宮崎から入り、熊本、唐津、福岡、大分・九州各地の能楽堂、能舞台を訪ねる。

これまで、いろいろな能楽、および能楽に関する催しを手がけてまいりました。
能楽をご覧になったことのない方、また一人でも多くの方達にご覧いただきたいとの思いで行って来ました。
ユネスコの世界遺産にも認定された、日本が世界に誇る伝統芸能である能楽の魅力を、より広く伝えていきたい、次の時代に繋げていきたい。あらゆるジャンルから能楽を捉えてゆく活動をしております。

航空母艦「インデイペンデンス」で、能楽史上初の薪能

能面
能面
「土蜘蛛」 上田貴弘 1996年7月8日
「土蜘蛛」 上田貴弘 1996年7月8日
インディペンデンス公演 チラシ
インディペンデンス公演 パンフレット
故 中村保雄 能面研究家、故 前西 芳雄  元『観世」編集長の主宰する「仲間の輪」 於  京都
故 中村保雄 能面研究家、故 前西芳雄 元『観世」編集長の主宰する「仲間の輪」 於 京都
「世阿弥忌 セミナー」懇親会  於 奈良
故 前西芳雄 村瀬和子 西野春雄
「世阿弥忌 セミナー」懇親会 於 奈良

日本能楽学会会員  上田観正会能楽堂(非常勤)
三田屋本店、有馬能楽堂コーディネーター(非常勤)

「あさひ能」朝日ホール
「あさひ能」朝日ホール
芝能「藤戸」上田貴弘 2016年4月6日 写真:今駒清則
芝能「藤戸」上田貴弘 2016年4月6日 写真:今駒清則
芝能「藤戸」上田貴弘 2016年4月6日 写真:今駒清則
北野ガーデンチラシ1
北野ガーデンチラシ2
北野ガーデンチラシ3
北野ガーデンチラシ4
心斎橋パルコ店 狂言公演 表面
心斎橋パルコ店 狂言公演 裏面
有馬能楽堂 能・狂言公演 表面
有馬能楽堂 能・狂言公演 裏面

「Violine Concert MAUORO IURATO 能楽堂で弾く」

日時:令和4年1月22日(土)
場所:湊川神社 神能殿

「笑福亭呂鶴一門会」チラシ表面
表面
「笑福亭呂鶴一門会」チラシ裏面
裏面

「笑福亭呂鶴一門会」

日時:令和6年3月24日(日)
場所:湊川神社 神能殿

「笑福亭呂鶴一門会」チラシ表面
表面
「笑福亭呂鶴一門会」チラシ裏面
裏面

「笑福亭呂鶴一門会」

日時:令和7年4月6日(日)
場所:湊川神社 神能殿

「笑福亭呂鶴一門会」チラシ表面(令和7年開催)
表面
「笑福亭呂鶴一門会」チラシ裏面(令和7年開催)
裏面

〜日本でひとつの杉の図柄の鏡板〜

生田神社の能舞台を追って

千葉定子

生田神社社報「むすび」誌 no156 令和三年八月一日掲載分より

 生田神社では毎年、恒例の正月に飾る杉盛(すぎもり)が有名である。神社は今から一一〇〇年前に現在の新幹線、新神戸駅に近い砂子山(いさごやま)に鎮座していたが延暦十八年の山中を襲った大洪水で松の木が倒れ、社殿が倒壊、そして今の地に遷座したと伝えられている。  そのために現在の境内には松が一本もなく、松竹梅も松は桜を使っている。ずいぶん以前にラジオ関西の番組の中で、文学博士で神戸女子大学名誉教授、現在生田神社名巻宮司である加藤隆久氏がそんな話をされ、神社 にあった能舞台の鏡板[*]の図柄も杉であった。全国でもひとっしか無い珍しいものだったと話されていた。
早速、加藤宮司(当時)にお目にかかって能舞台、鏡板の事を聞いてみたが、戦争で総て消失して資料も何も残っていないと言うことであった。

 日本画家、松野秀世先生との出合いは大槻能楽堂に在職していた三十年以上前、阪急うめだ美術画廊での先生の小品展の時だった。初対面であったが、今、豊中の住吉神社の宮司さんが見えていた。神社にある能楽堂は、三度に亘り移築再建したものであるということ。各地にある能楽堂、能舞台の変遷、一枚づつ特色のある鏡板の図柄、その作者のことなど興味深い話であった。
 若い頃、油絵に専念した事もあり、絵は好きである。その頃、編集していた大槻の会報にそんな能舞台、鏡板の図柄の紹介が出来ないかと先生にお願いした。
 先生の事は父子で能画家ということしか知らず、拙い会報誌に今となっては恥かしい限りである。能画家、松野奏風、秀世、父子は能楽の世界でつとに著名であり、奏風先生は中尊寺の白山神社能楽殿をはじめ、各地に三十を越える鏡板の老松図を描き能評ほかで健筆を振い、幅広い活動をされ、秀世先生も東京観世能楽堂、厳島神社能舞台再建で鏡板絵の復元など二十数箇所の松図を手がけた方であったことを後になり知った。
 翌年から年四回発行の会報誌に大阪、京都、兵庫で十六箇所の掲載をした。そのあいだ、終わった後も現存最古の国宝、西本願寺の能舞台の調査に松野先生、写真家の今駒清則氏、建築家の故澤良雄氏ほかで二度入り、明石の魚住の住吉神社、加古川方面、京都市内や亀岡、岸和田ほかの能舞台、鏡板絵図を訪ねた。
 生前、先生は鏡板図をまとめたいと言われていて今年は是非、未踏の九州へ行きましょうと電話で話されたのを最後に急逝された。
 その年の秋、宇佐神宮の演能の日に合わせて宮崎からフェリーで九州に入り、熊本、福岡、唐津、大分と廻って来たが、先生がいられたらという想いが頭から離れなかった。

 去年からのコロナ禍で能の催しが中止となり、今年に入り以前から気になっていた自分の住んでいる神戸の生田神社の能舞台にあったという杉の鏡板図、日本にひとつだけしかなかった珍しい図柄を見たいと思い調べてみようと思い立った。
 先ず神戸文書館に行き話をすると長田区にある「神戸アーカイプ写真館」へと云われ、出向いた。生田神社に関する三五0枚余りの写真を見たが能舞台の手がかりになるものは一枚もなかった。

[*]神社仏閣の建槃で板壁を張る最上級の施行の際の「雇い実矧ぎ」という継ぎ方を宮大エが云う呼び名。
能舞台の正面奥の羽目板。正面に大きく老松を、右側に若竹を描いたものが多い。

官幣中社生田神社境内縮圏(明治三十年頃)
官幣中社生田神社境内縮圏(明治三十年頃)

 改めて文書館で「生田神社史」を閲覧、最初の頁に生田神社境内縮図(明治三十年頃)というのがあり拝殿の東側、木を背景に神楽殿があった。最も古い神社の様子がわかる図であり、この神楽殿が能舞台ではなかったかと加藤名誉宮司に聞くと、そうだということで、この時は木々の前に鏡板のある能舞台かと思っていた。
 神楽殿でも演能はあることで神楽殿、能楽堂、能舞台が混沌としているが演能記録を調ベようと倉田喜弘「明治の能楽(一)ー(四)」(日本芸術文化振興会)から生田神社のものを拾い出していった。一番古い記録の中から明治二十四年十一月二十三日神能を催す。明治二十五年五月五日奉納の能楽あり、番組も記載されている。明治二十八年、二十九年、三十一年と奉納能楽の記録があり、金剛鈴之助、謹之助、片山九郎三郎、大江信之助ほかの能楽師の名前がある。明治三十六年十一月生田神社の能楽堂、神楽殿落成、臨時祭典執行するの由。大西閑雪、大西亮太郎ほか。
 同じ頃、神戸女子大学古典芸能研究センターに足を運んで、能楽関係の「大観世」「金剛」ほかの雑誌を片っ端から見ていったが手がかりになるものは何もなかった。
 「明治の能楽」の記事が「大阪朝日」以外は「神戸又新(ゆうしん)日報」とあり初めて知った新聞名であったが神戸文書館で閲覧出来ることを知った。明治十七年から昭和十四年まで神戸で発刊された日刊新聞が文書館で収められて目の前にかなりの量が並んでいたのに全く気が付かなかったのである。
 「明治の能楽」明治三十六年十月二十八日の生田神社の能楽堂 當市官幣中社生田神社の神楽殿は、昨年十一月に起工し此程全部落成を告げたるを以て、来月三、四日の両日は落成式の為め臨時祭典を執行する由[中略]。四日は午前八時より奉納能楽の施行あり[抄記]
 そして文書館で「又新日報」を開き、生田神社の能舞台、鏡板の杉の様子、画家の名、知りたいことはこの記事で総て分かった。
 その後、写真、岡柄がないものかと神戸女子大学古典芸能研究センターで棚を見ているうち「神戸謡曲界」(大正十一年から昭和十五年頃)という雑誌が目に止まり神戸のことは神戸のほうが解るかと初めて手にした。欠号も多いようで全部で四十二冊閲覧していった。
 杉の図柄、舞台に触れた文章もあった。「大正十二年夏、彼の荘厳雄大なる生田神社の能舞台、而も鏡板は日本随一だと云われて居る古杉の図で松と異なった神韻に富む物である。筆者は深田直城画伯で極めて写生的の画である。ー中略ー能楽が使用しないから琵琶が利用した迄だと云えばそれ切りのものだがー中略ー」この頃は能舞台を演能に使うことはなかったようである。
 また昭和八年八月十日第三十五号に生田神社奉納能楽の写真もあった。今のところ能舞台の演能での唯一の写真である。舞台、橋掛り、観客の様子は解るが残念ながら鋭板の杉の図柄は不鮮明。

明治三十六年十月二十八日「神戸又新日報」生田神社の能楽堂の記事
明治三十六年十月二十八日「神戸又新日報」生田神社の能楽堂の記事
生田神社奉納能楽「小袖會我」  向かって左上田浅ー氏、右辻田榮介氏 「神戸謡曲界J 昭和ハ年ハ月十日第三十五号
生田神社奉納能楽「小袖會我」  向かって左上田浅ー氏、右辻田榮介氏
「神戸謡曲界J 昭和ハ年ハ月十日第三十五号

 大正時代の奉納は今のところ資料が見付からない。昭和十年四月二十二日春祭奉納楽會、 能楽「富士太鼓」、上田隆一、舞囃子「三輪」 上野義三郎、狂言「呼声」茂山忠一良と神戸在住で当時、活躍した能楽師の名前が残って いるのを最後に生田神社の能舞台の記録は今 まで調べた限りでは確認が出来ていない。 昭和のこの頃になると加藤名誉宮司の話で は、もう戦争で能楽堂どころではなかったと 言うことである。

 能研究者で生前親しくしていた坂田昭二氏 の「近代能楽研究の先達 横山杣人(よこやまそまびと)の歳月」 の著書、横山杣人年譜より
昭和十二年 杣人氏六十四歳
[十月三十日]神戸へ出向き、大丸での御能趣味作品展で牧俊高の木彫り能人形、山口蓼洲 の能画を観賞したのち生田神社で「皇軍出征 将士の連戦連勝を奉祝し武運長久を祈願」し 明治の奉納能を回顧。「其頃の田舎に住む私が 能を観やうとすれば春は生田さん、秋は姫路の総社祭(十一月十五日)の僅に毎年二回の日の来するのを待ち遠しくも楽しむだものであ る」。(「能楽世界」五五〇号「樵日記三一〇」)

 今回のことで明治以降の能楽界の様子を知 り、取り巻<事に興味をそそられ関心が尽き なくて、改めてその頃の本、雑誌を読み返していた。
 現在、大阪の天満にある朝陽会館の上野家が昭和十年頃まで神戸で活躍していた事を知 り、先代の上野朝太郎先生と、故人で親しく していた知人とのちよっとした謎が解けて女流能楽師の赤井きよ子師(祖父は上野義三郎。 その子朝太郎師次女)に初めてそんな電話を したのである。上野家と知人は家族ぐるみのお付き合いだったので懐かしい話をした。ど うして解ったかと話をして生田神社のこと、 鏡板、深田直城という名前を言うと、赤井先生はその画伯のことをご存知で、お孫さんに当たる方のご主人様と親交があるというのには驚いてしまった。
 今、その方と電話でお話をしているが、画伯のことを調ベライフワークにされており、 生田神社の鏡板を画かれたことはご存知なくてコピーを送ると喜んでいただけた。お礼のお葉書で奥様の手元にある作品や、資料をご覧いただく機会があればと願っているとのお言葉を頂戴している。
 いずれ、杉の鏡板の図柄が解りましたら改めてご報告出来ることを願って調べているところでございます。

 この度のこの文章をお読みになられた方にお願いがございます。内容についてのご指摘、 生田神社の能舞台、杉の鏡板のこと、深田直城画伯( 昭和二十二年大阪より移り住んだ西宮で没 )のこと、写真、資料、 情報がありま したら是非ご連絡頂きた<存じます。どんな些細なことでも結構です。

 また、これを機会に能楽堂 、能舞台に足を運んで我が国の七〇〇年の伝統を誇る無形世界遺産である能楽を鑑賞いただき、舞台正面の鏡板の図柄にも目を止めてくださいましたら能楽に携わる者として嬉しく思います。
 今回、写真家、今駒清則氏と神戸女子大学 古典芸能研究センター、大山範子氏にはひと かたならぬご協力を賜わりました。厚くお礼 を申しあげます。

生田神社舞台 (藤井久雄著 『鶏肋抄』)より  墨絵の杉の図柄の鏡板 森月城
生田神社舞台 (藤井久雄著 『鶏肋抄』)より  墨絵の杉の図柄の鏡板 森月城

生田神能 藤井久雄著 「鶏肋抄」 より

 戦災に遭った生田神社では、 焼野ケ原の生田の森にいち早く仮本殿が建ったので 、 先ず人心の安定を祈る気持ちで、社殿の横手に仮舞台を作り、観謳会として舞囃子や箙の能を奉納した。これが神戸における戦後最初の能であった。【中略】のち神社では、舞台の鏡板に使用出来る高さ七尺五寸、幅十八尺の六枚折を新調された。これは竹馬家の寄贈になるもので、森月城画伯がわざわざ淡路のいざなぎ神社の杉を写生に行かれ、墨絵ではあるが立派に出来上がった。
 元来、鏡板は松の絵が定まりであるが、生田様は昔から松がお嫌いで、境内には一本の松もなく、戦前まであった能舞台の鏡板にも松の替わりに杉が描かれ、「羽衣」などを謳う場合にも「これなる松に美しき衣掛けれり」とは言わず、「これなるところに美しき衣掛けれり」と謳う程、徹底した松嫌いの神様として有名で、正月の門松も生田様は杉盛さまとして杉葉が使われている。【中略】
五十四年九月薪能が催され、その後、生田秋祭の行事として続いている。

能楽堂・能舞台の鏡板のご紹介

京都観世会館

松図 堂本印象(どうもといんしょう)

松図 堂本印象
(どうもといんしょう)

昭和三十三年

金色をふんだんに使った特徴のある 老松。堂本印象、唯一の鏡板松図。
京都市左京区岡崎円勝寺町44
☎075-771-6114
<写真提供>今駒消則

金剛能楽堂

松図 巌城清懽(いわきせいかん)

松図 巌城清懽
(いわきせいかん)

明治六、七年頃

円山応拳の弟子。黒光りした板の松の緑が金箔の中に浮かび、脇鏡板にも金箔が使われた珍しい図柄。
京都市上京区烏丸通中立売上ル
☎075-441-7222
<写真提供>今駒清則

篠山春日神社能楽殿

松図 松岡宗右衛門(まつおかそうえもん)

松図 松岡宗右衛門
(まつおかそうえもん)

文久元年

篠山藩主青山忠良(あおやまただなが)の寄進である。 写真は補修以前の当初のものである。
平成十五年国指定重要文化財
篠山市黒岡75
☎075-441-7222
<写真提供>今駒清則

西本願寺北舞台

西本願寺北舞台

西本願寺にある日本最古、天正九年以前に建築の能舞台。桃山時代と言われ明治二十九年に再建された南能舞台と二つの能舞台は何れも国宝。南舞台では毎年5月21日は親鸞聖人の降誕会に祝賀能が催されている。
京都市下京区堀川通花屋町下る
☎075ー371-5181
<写真提供>今駒清則

山本能楽堂

松図 松野奏風(まつのそうふう)

松図 松野奏風
(まつのそうふう)

昭和二十五年

図柄は樹幹の強い線描に筆勢を漲ら せ右手へと枝を振り分け竹は正面に かかっている。国登録有形文化財。
大阪市中央区徳井町1-3-6
☎06-6943-9454
<写真提供>今駒清則

大槻能楽堂

松図 大塚春領(おおつかしゅんれい)

松図 大塚春領
(おおつかしゅんれい)

昭和十年

大塚春領は大槻文雪、十三に謡いを 習い制作時は七十歳、深田直城に師事した。能舞台は国登録有形文化財
大阪市中央区上町A番7号
☎06-6761-8055
<写真提供>今駒清則

河村能舞台

松図 松野奏風(まつのそうふう)

松図 松野奏風
(まつのそうふう)

昭和三十一年

当時の河村三兄弟のために伸びやか な枝ぶりで構図したと父に聞いていると松野秀世先生が話されていた。
京都市烏丸通上立売上る柳回子町320-14
☎075-415-0737
<写真提供>今駒清則

大江能楽堂

松図 松野奏風(まつのそうふう)

松図 国井應陽
(くにいおうよう)

明治四十一年

円山応拳六代目の子孫にあたる。梢も 株も画かれていない構図。明治の時代が偲ばれる貴重な能楽堂。
京都市中京区押小路御馬場東入ル
☎075-231-7620
<写真提供>今駒清則

上田能楽堂

作者不明

作者不明
 

昭和三十七年

鏡板は昭和二十五年に西宮に建てら れた日芸会館(昭和三十一年閉館)のもので上下10cm·l5cm切り移したものである。当時として収容人貝1.200人、能以外の上演も可能な大劇場であった。
神戸市長田区大塚町2-1-14
☎078-691-5449

湊川神社神能殿

松図 小川翠村(おがわすいそん)

松図 小川翠村
(おがわすいそん)

稽古舞台

竹内栖鳳の高弟、西山翠障の大阪の 門人であった。神戸観世会の長老、故福田源平氏の寄贈。平成に入り現在の階下に収められた。
神戸市中央区多聞通3-1-1
☎078-371-1358

松図 今中素友(いまなかそうゆう)

松図 今中素友
(いまなかそうゆう)

昭和四十七年

川合玉堂監修になる東京大曲にあった観世会館の旧舞台が寄贈された。楠木 正成公、観阿弥、世阿弥との血縁で結ばれた日本でも唯一の能楽殿である。

三田屋本店
心斎橋パルコ能舞台

松図 依藤秩帆(よりふじちほ)

松図 依藤秩帆
(よりふじちほ)

令和二年

西田真人監修。小振りながらも本格的な雰囲気の能舞台。ホログラム映写、能楽囃子のコンサートを予定。鏡板作者としては珍しい若い女性の手になる鏡板図である。
大阪市中央区心斎棉筋1 8-3
心斎橋パルコ13F御堂筋ダイニング
☎050-3204-0215